見失わずに生きるために、途中。を記す。

手段を増やすことはできる。
写真を練習することもできるし、
絵を学ぶこともできる。
文章を、もっと上手く整えることだって、
きっとできる。

でも、時間は限られている。

だから時々、
本当にやりたいことは何かを、
立ち止まって見直したくなる。

僕にとってそれは、
上手く作れるようになることそのものではなかった。

その日の考えごとの途中。を刻むこと。
あとで振り返って、
内省の種にすること。
別の視点や、
別の選択肢の材料にすること。

それが、
僕のやりたいことだった。

散歩して、
読んで、
考えて、
途中。を記す。
そして、
気ままにギターを弾く。

それが僕の理想の暮らしで、
おもしろいことに、
それはもう、
完全ではなくても、
すでに叶っていることでもある。

だから僕は、
何かになるために書いているわけじゃない。

まだ持っていない未来の肩書きを取りに行くためでも、
誰かに認められるためでもない。

もちろん、
読まれたい気持ちはある。
届いてほしい気持ちもある。
作品は、売れるように整えて並べたいとも思う。

でも、
売るために作品を作る。
そこから始めたいわけではない。

僕がやりたいのは、
自分の中に起きたことを、
見失わないように残していくことだ。

今、何を考えていたのか。
どこで迷っていたのか。
何に納得。したのか。
何を手放し、
何を持つと決めたのか。

その途中。を、
日記のように、
でも日記だけでは終わらない形で、
エッセイとして綴っていきたい。

たぶん僕は、
何かを達成したいというより、
見失わずに生きたいんだと思う。

今を見失わないために。
未来で迷わないために。
人生を散歩するために。

外で読む、考えごとの途中。は、
そのための置き場だ。

ここには、
完成された答えだけを置くわけじゃない。
むしろ、
まだ途中にある考えの方を置いていく。

整い切る前の思考。
迷いながらでも、
その時点での納得。に触れた言葉。
あとから読み返した時に、
ああ、この頃の僕はこう考えていたのかと、
静かに戻ってこられる記録。

そういうものを、
一つずつ残していきたい。

AIを使っているのも、
そのためだ。

僕は、
写真が上手いわけじゃない。
絵も描けない。
文章を美しくまとめることも、
まだ得意ではない。

でも、
刻みたいものはある。

思想。
哲学。
生き方の型。
その日に見たもの、
考えたこと、
迷ったこと。

それらを残したいという目的はあるのに、
手段だけが乏しかった。

だから、
その手段を補うためにAIを使っている。

AIで何かを盛りたいわけじゃない。
AIで自分の代わりに生きたいわけでもない。

先にあるのは、
記しておきたい今の自分だ。

その考えを、
届く形に整えるために。
その気配を、
見える形に補うために。
AIを使っている。

それだけのことだと思う。

たぶんこれからは、
ただ綺麗に作れることだけの価値は、
少しずつ薄れていくんだと思う。

昔、
写真。が現れたことで、
絵。は
「いかに正確に写し取るか」
だけの場所ではなくなった。

今はその変化が、
もっと広い領域で起きている。

AIが、
綺麗な絵も、
それらしい写真も、
整った文章も、
ある程度つくれるようになった。

だから逆に、
問われるものが変わってきた。

なぜ、
それでも自分で撮るのか。
なぜ、
それでも自分で描くのか。
なぜ、
それでも自分で記すのか。

その理由の方が、
前に出てきている。

僕にとっては、
その理由がはっきりしている。

見失わずに生きたいからだ。

その日々の考えごとの途中。を残し、
あとで振り返り、
内省の種にし、
未来の自分の材料にしたいからだ。

たくさん持つためではなく、
足るを決める。ために。
速く進むためではなく、
途中。を確かめるために。
何者かになるためではなく、
今ここにいる自分を、
置き去りにしないために。

だから僕は、
外で読む、考えごとの途中。に、
一つずつ書いていく。

大げさな宣言じゃなくていい。
立派な結論じゃなくていい。
その日の途中。を、
その日の納得。で刻めればいい。

そうやって残した言葉たちが、
あとでまた僕を助ける。
迷った時に戻る場所になる。
暮らしの輪郭を確かめる手がかりになる。

書くことは、
前へ進むための武器というより、
戻ってくるための道しるべなのかもしれない。

僕は今日も、
散歩して、
読んで、
考えて、
少し書く。

そしてまた、
人生の途中。を生きていく。