僕は今、文筆。を創作。としている。
小説家になりたいわけでも、文章を書くことそのものが得意だったわけでもない。
ただ、考えることは昔から好きだった。
暮らしながら考えたこと。
本を読んで考えたこと。
歩きながら考えたこと。
働きながら考えたこと。
頭の中には、いろいろな考えが浮かんでは消えていく。
だから、書く。
僕にとって文章を書くことは、自分の中にあるものを可視化するための営みなのだと思う。
書くことで、見えるようにする。
頭の中だけで考えていると、自分が何を考えているのか、自分でもよく分からなくなることがある。
言葉にしてみる。
並べてみる。
削ってみる。
書き直してみる。
そうすると、ぼんやりしていたものに少しずつ輪郭ができる。
だから僕にとって文筆。は、誰かに何かを伝えるためだけのものではない。
まず、自分の考えを整理するためにある。
その記録を置き、育てていく場所として、僕はWordPressで自分のサイトを作った。
誰かに読まれることを第一に考えるなら、もっと適した場所はあると思う。
けれど、僕が欲しかったのは人が集まる場所ではなく、自分の考えを自分で管理できる場所だった。
他者に迎合はしない。
けれど、閉じもしない。
僕のために書きながら、誰かにも開いておく。
今は、そのくらいの距離感が心地いい。
記録。から作品。へ。
僕の中では、記録。と作品。には少し違いがある。
日記。は記録。だ。
その日に考えたことや、経験したことを書き残す。
それは、後の記事。を作るための素材にもなる。
記事。になると、少し形が整ってくる。
複数の記録がつながったり、一つの考えを深く掘ったりしながら、少しずつ読み物になっていく。
僕にとってサイトの記事。は、記録。から作品。へ移っていく途中にあるのだと思う。
だから、何度でも更新できるようにしておきたい。
考えが変われば書き直す。
不足していれば足す。
余計だと思えば削る。
そうして育てていく。
そして、あるところまで育ち、自分なりに納得。できたものを束ねて、本。にする。
その時、僕の中ではひとまず作品。になる。
作品。は、僕だけが決めるものでもない。
ただ、作品。かどうかは、作者だけが決めるものでもないのだと思う。
僕にとっては単なる日記。でも、誰かが一篇のエッセイとして読んでくれるかもしれない。
僕にとってはまだ途中の記事。でも、誰かにとっては一つの作品に見えるかもしれない。
子供が遊びで描いた落書きが、見る人によっては芸術になることもある。
作者が何として作ったか。
受け取った人が何として感じたか。
その二つは、必ずしも一致しなくていい。
そして僕自身も、記録。として残していた日記。を後から束ねれば、エッセイ集という作品。にすることができる。
記録。と作品。の境界は、案外曖昧なのだと思う。
だから僕は、それを無理に決め切らなくてもいいと思っている。
僕はこう考えて、こうしている。
文章を外へ開く以上、読者。の存在をまったく意識していないわけではない。
ただ、読まれるために考えを変えたり、強い言葉を選んだりするつもりもない。
過激な表現や誇張は避ける。
できるだけ断定もしない。
僕が書きたいのは、
「世の中はこうだ。」
ではなく、
「僕はこう考えていて、こうしている。」
という文章だからだ。
他者や社会について考えることもある。
けれど、その中へ入り込んで叫ぶより、自分がどう向き合うのかを考えたい。
僕が変えられる範囲。
僕が選べる範囲。
その影響の輪。の中で、自分の暮らしの哲学を作っていきたい。
作家。と編集者。
今の僕の文筆。には、AIが深く関わっている。
僕が考える。
話す。
AIと壁打ちする。
そして、編集する。
僕自身は、これをそれほど特別なことだとは思っていない。
作家。に編集者。がいる。
昔からある構図だと思う。
その編集者が、人なのかAIなのか。
今の僕にとっては、そのくらいの違いだ。
もちろん、いつか人の編集者と一緒に作ることがあっても面白いと思う。
他者からのフィードバックを強く求めているわけではない。
でも、返事が届くなら、それはそれで嬉しい。
だから僕は、手紙。という場所も用意したのだと思う。
一方的に叫ぶ場所ではなく、静かに置いておく場所。
必要な人には届き、時々返事が返ってくる。
そのくらいでいい。
完成。は、現時点の納得。
僕は、完全な完成。というものをあまり信じていない。
少なくとも、暮らしについて書く文章には、完成はないと思っている。
暮らしは変わる。
僕自身も変わる。
考えも変わる。
だから、書いたものも変わっていい。
増築してもいい。
壊してもいい。
削ってもいい。
捨ててもいい。
建物のように、暮らしながら補修していけばいい。
僕にとって完成。とは、
現時点での納得。
なのだと思う。
つまり、完成。もまた途中。にある。
本。として一度送り出した文章も、数年後には違う書き方をするかもしれない。
それでいい。
その時の僕には、その文章が納得。だった。
そして今の僕には、今の納得。がある。
何度でも、作り直せばいい。
この考えは、文章だけに限らないと思う。
今は余暇。として楽しんでいるギターも、いつか創作。になる日が来るのかもしれない。
もし一つの演奏を作品。として残したとしても、腕前が上がれば、同じ曲がまったく違って聴こえるだろう。
なら、また演奏すればいい。
絵なら、また描けばいい。
文章なら、また書けばいい。
一度作品。にしたからといって、それが永久に完成形である必要はない。
創作そのものを、リライトしていけばいい。
余暇。から生まれたものに、形を与える。
余暇。は、自分のために自由を味わうもの。
創作。は、その自由から生まれたものに形を与える営み。
今の僕にとって、その形が文筆。なのだと思う。
歩く。
読む。
考える。
暮らす。
その中で生まれたものを、言葉にして残していく。
記録。し、育て、束ねる。
そして、現時点の納得。まで育ったら、一度作品。として送り出す。
それでも終わりではない。
また暮らし、また考え、必要なら書き直す。
僕にとって創作。とは、
自分の内側を可視化し、記録を育て、現時点の納得。として形にする営み。
なのだと思う。
そして、その作品もまた、
まだ途中。にある。