友達と友人は、僕の中では少し違う。
どう違うのかと聞かれると、説明するのは少し難しい。
複数人で集まっている時には、
「友達と遊んできた。」
と言うことが多い。
でも、その中の一人を思い浮かべると、
「僕の友人。」
という言葉の方がしっくりくる。
昔は、こんなことをあまり考えていなかった。
学生時代には、同じ学校で一緒に遊んでいた人たちを広く友達と呼んでいた。
社会に出て、学校という環境がなくなった。
それでも残った人がいた。
反対に、自然と会わなくなった人もいた。
その頃から少しずつ、友達と友人という言葉の感触が違ってきた気がする。
だからといって、
この人は友人。
この人は知人。
この人は親友。
と、普段から頭の中で人を並べているわけではない。
そんなことはほとんど考えない。
ただ、ふとその人との関係を意識した時に、
この人は友人だな。
昔は友達だったけれど、今は昔の同級生に近いな。
この腐れ縁は、もしかすると親友と呼ぶのかもしれないな。
と思う。
そこで、境界が見える。
この話をしていて、運動場に引かれていた白線を思い出した。
境界というと、壁みたいなものを想像しやすい。
こちら側。
あちら側。
越えてはいけない線。
でも、僕が考えている境界は、もう少し軽いものらしい。
運動場の白線みたいなものだ。
白線は壁ではない。
普通にまたげる。
雨が降れば薄くなる。
競技が変われば、別の場所へ引き直す。
それでも、線があることで、
今ここから内側。
ここから外側。
ということは分かる。
たぶん僕は、こういう線をいろいろなところで見ている。
必要なものと、欲しいもの。
仕事と、労働。
余白と、空白。
好きと、愛。
似ている。
重なっているところもある。
でも、同じではない。
似ているから同じでいい、とまとめてしまうと、その間にあった違いまで消えてしまう気がする。
だから僕は、言葉を分けるのかもしれない。
違いがあるなら、その違いを見ていたい。
ただ、その線を永久に固定したいわけでもない。
必要だったものが、いつか不要になることもある。
友人だった人との距離が変わることもある。
知人だった人が、大切な友人になることもある。
線は動く。
時には消える。
また必要になれば引き直す。
だから境界は、何かを閉じ込めるためのものではないのだと思う。
今、自分がどこに立っているのか。
今、二つのものをどう違うと感じているのか。
それを見るために、少しだけ白い線を引いてみる。
明日には、その線が少し動いているかもしれない。
それでも今日は、ここに線が見えている、