傘を盗まれた。
学生時代から使っていた傘だった。
もう何年使っていたのか、正確にはよく覚えていない。
少なくとも、かなり長い。
歴戦個体。である。
さすがに長く使いすぎて、最近では雨を弾く力もほとんど残っていなかった。
防水性能という意味では、傘としてだいぶ怪しい。
それでも雨風くらいは凌げる。
骨もまだ生きている。
だから僕は、
「ぶっ壊れるまで使おう。」
と決めていた。
その傘を、盗まれた。
怨みの炎が灯った。
愛用品。として残すつもりだった。
ちょうど最近、長く使っている愛用品。を写真に残して、文章でも書いてみたいと思っていた。
その傘も候補だった。
新品の頃より、今の方が面白い。
長年使って、少し色褪せている。
雨もろくに弾かない。
それでも僕は普通に使っている。
性能だけを見れば、そろそろ買い替えた方がいい。
でも、まだ使える。
だから使う。
そういう物を、僕は『モンスターハンター』から言葉を借りて、歴戦個体。と呼んでいる。
精鋭。として長く残り、時間まで積もった愛用品。
その象徴として、いつか写真を撮ろうと思っていた。
いつか。
と思っているうちに、なくなった。
写真は一枚も残っていない。
壊れたなら、たぶん納得できた。
少し意外だったのは、傘を失ったことが思ったより残念だったことだ。
僕は、物への執着はそれほど強くないと思っていた。
壊れれば買い替える。
必要がなくなれば手放す。
役目を終えたなら、それでいい。
実際、あの傘も壊れたなら、
「長いこと、よく働いたな。」
くらいで、新しい傘へ入れ替えられたと思う。
それはそれで、手放しの美学。みたいなものになった気がする。
でも今回は違った。
壊れていない。
僕はまだ使うつもりだった。
最後まで使うと決めていた。
なのに、途中でいなくなった。
そこで初めて、
ああ。
僕はこの傘に、ちゃんと執着していたんだな。
と思った。
物を減らすと、執着も減ると思っていた。
少ない物で暮らすようになると、物への執着も薄くなるような気がしていた。
でも、逆なのかもしれない。
物が少なければ、同じ物を何度も使う。
何年も使う。
一緒に過ごす時間が増える。
そうすると、その個体に履歴が積もる。
学生時代から使っていた。
いろいろな場所へ持っていった。
何度も雨を凌いだ。
もう雨を弾かなくなっているのに、それでも使っていた。
同じ性能の傘を買うことはできる。
もっと性能のいい傘も、いくらでもある。
でも、それはあの傘ではない。
物を減らすことと、物への執着を減らすことは、同じではないらしい。
むしろ、精鋭化した結果として、残ったものへの執着は濃くなることもある。
愛着が積もっていたことは、使っている時から分かっていた。
でも、それが執着。だったことには、失って初めて気づいた。
今回、それを盗人に教えてもらった。
できれば、別の方法で知りたかった。
残したい時に、残す。
もう一つ考えた。
写真を撮っておけばよかった。
愛用品。として残したいとは、すでに思っていた。
でも、
また今度でいい。
まだ使うし。
と思っていた。
まさか、その前になくなるとは考えていなかった。
考えてみれば、物がいつまでそこにあるかなんて分からない。
壊れるかもしれない。
失くすかもしれない。
盗まれるかもしれない。
そして、これは写真。だけの話でもないのだと思う。
書きたいと思った日記。も。
今の納得。として残したい記事。も。
あとで書けばいいと思っているうちに、その時の温度は少しずつ変わっていく。
同じ出来事を後から書くことはできる。
でも、その瞬間に何を感じて、何を考えていたのかまで、まったく同じには戻せない。
僕は『途中。』として、今の納得。を残している。
日記。では、その日の揺らぎを一枚に残している。
そう考えると、
残したいと思った時が、残す時。
なのかもしれない。
だからといって、何でも写真に撮って、何でも文章に残したいとは思わない。
暮らし全部を保存し始めたら、それはそれで忙しい。
「残しておかなければ。」
になった瞬間に、記録することまで義務になってしまう。
そうではなくて、
残したいと思った今の自分を、あまり待たせない。
そのくらいでいい。
写真を撮りたいなら撮る。
日記。を書きたいなら書く。
記事。として一度刻んでおきたいなら、完成を待ちすぎずに置いてみる。
未来の僕。が変わったなら、また更新すればいい。
今回、傘の写真は残せなかった。
でも、そのおかげで執着。について考えた。
手放すことと、失うことは違うと知った。
歴戦個体。という言葉の意味も、少し深くなった。
写真の代わりに、この日記。が残ることになった。
それはそれで、悪くない。
できれば、まだ使っていてほしい。
とはいえ。
盗んだ人には、普通に腹が立っている。
怨みの炎は、まだ消えていない。
でも、もう僕の手元から離れてしまった以上、どうすることもできない。
なら、せめて使っていてほしい。
雨の日に困って、たまたま目の前にあったあの傘を持っていったのなら、それで雨を凌いでくれればいい。
もしもう要らないのなら、ゴミとして捨てるのではなく、どこかの傘立てにでも刺しておいてほしい。
そしてまた別の誰かが持っていけばいい。
次の盗人の雨まで凌げたなら、歴戦個体。としては、なかなか立派な最期かもしれない。
盗った奴には腹が立つ。
でも、あの傘で雨に濡れずに済んだなら、
まぁーえぇか。