僕。というフィルターから見た、外読。

このページは、
プロフィールではない。

何者で、
何をしていて、
どこで活動しているかを
外向きに説明するためのページなら、
別にある。

ここに書きたいのは、
この場所を
僕がどう見ているかという、
もっと内側のことだ。

僕は、
外で読む、考えごとの途中。を
庭のように見ている。

完成や正解を並べる場所ではない。
すべてを整え切ってから
置く場所でもない。

散歩して、
読んで、
考えて、
その時々で納得。したことを置いていく。

その繰り返しで、
少しずつ整っていく場所。

僕にとって、
ここはそういう庭だ。

僕は、
途中。を刻まないと進めない。

全部が整ってからでは遅いし、
言い切れる日だけを待っていたら、
何も残らない。

だから、
その時点での納得。に「。」を打って、
また歩き出す。

この場所に置いているのは、
そういう途中。だ。

収益のことを
考えなかったわけではない。
むしろ、
かなり考えた時期があった。

どうすれば成り立つか。
何を置けば届くか。
何をすれば続くか。

でも、
考えれば考えるほど、
どこか腑に落ちなかった。

あとから分かったのは、
僕が本当に欲しかったのは、
仕組みそのものではなかったということだ。

静かに自分を手入れして、
その記録を残していける場所。

僕が求めていたのは、
先にそっちだった。

そのうえで、
自然なキャッシュポイントは意識する。
表に出して置く以上、
誰かに見られることも意識する。

だから、
ただのメモではなく、
エッセイ。という形で記している。

でも、
順番は変えたくなかった。

売るために作るのではなく、
記したものが、
必要な人に届くように整える。

今の形は、
その順番に戻した結果でもある。

この場所に記しているのは、
隠れた誰かの像ではない。

いまここで生きている僕が、
その内側でこの場所をどう見ているかだ。

「僕。」という言葉は、
今も自分の内側では生きている。

けれど、
ここに置いていきたいのは、
現実から切り離した像ではなく、
日々を生きながら考え、
迷い、
納得。し、
少しずつ整えている僕の記録だ。

これは、
名前の説明をするための文章ではない。

この場所を、
僕がどう手入れし、
どんな気持ちで育てているかを記す、
一篇のエッセイだ。

僕の中では、
思想や思考は花に近い。

外で読むこと。
気づくこと。
体験すること。
そういうものが種になる。

そして、
そこから育ったものを、
飲める形にしたものが
エッセイ。なのだと思う。

だから、
コーヒーが象徴になった。

花があり、
種があり、
それが飲める形になる。

それは飾りではなく、
僕の中では
この営みの循環そのものだった。

普段は、
こういう比喩を前に出しすぎないようにしている。

でも、
僕の中では確かに生きている。

だから、
この一ページにだけは
記しておきたかった。

僕は、
この庭の手入れをしている人だ。

派手に咲かせたいわけじゃない。
完成を急ぎたいわけでもない。

ただ、
散歩して、
読んで、
考えて、
納得。したものを置いていく。

そうして少しずつ整っていく場所を、
見失わないように守っていく。

外で読む、考えごとの途中。は、
僕にとって
そういう場所だ。

そして僕は、
今日もまた、
その手入れをしている。