僕は、答えを持っている人間ではない。
むしろ、答えが分からないから考えている。
どう生きるのが正しいのか。
どんな働き方が正しいのか。
何を持ち、何を手放せばいいのか。
幸福とは何なのか。
人生とは何なのか。
考え始めれば、分からないことばかりだ。
だから僕は、正解を探すというより、
いまの自分が納得できるところまで考える。
ということを繰り返している。
そして、考えたことを暮らしの中で試している。
暮らしを、自分の手に置いておきたい。
僕は、自分の人生をできるだけ自分で扱いたい。
会社も、世間も、流行も、便利なサービスも嫌いではない。
ただ、それらに無自覚に人生を預けてしまうことには、少し怖さを感じている。
働くことが嫌いなのではない。
必要以上に働かなければならない状態を好まない。
物を持つことが嫌いなのではない。
なぜ持っているのか分からない物に囲まれる状態を好まない。
SNSも同じだ。
使うことそのものではなく、自分の時間や思考が、いつの間にか誰かの都合で動かされてしまうことを警戒している。
だから僕は、よく整理する。
物を減らす。
仕組みを単純にする。
働き方を調整する。
余白を残す。
これは、少なく暮らすことそのものが目的なのではない。
自分で選べる状態を残しておきたいからだ。
自由とは、選択権が手元にあること。
僕にとって自由とは、何でもできることではない。
むしろ、
今日は働く。
今日は休む。
今日は散歩する。
本を読む。
ギターを弾く。
何もしない。
そのどれを選ぶかを、自分で決められることに近い。
やりたいことを選べるだけでなく、
やらないことを選べる。
それも自由だと思っている。
だから予定を詰め込まない。
生活に必要以上の固定費を抱えない。
出世や肩書きを人生の前提にも置かない。
空いている場所があるから、その時の自分が行きたい方向へ動ける。
僕にとって余白とは、何もない場所ではない。
何にでも使える場所だ。
効率化は、非効率を楽しむために。
僕は、わりと効率を考える。
仕事もそうだし、家事もそうだ。
服の種類を減らしたり、買う店やメーカーをある程度決めたりもする。
でも、効率的に生きたいわけではない。
効率化して生まれた時間まで、生産性で埋めようとは思わない。
その時間で散歩する。
公園のベンチで本を読む。
ギターを弾く。
キャンプへ行く。
何もしない。
そんな時間を残したい。
だから僕にとって効率化とは、
より多くのことをするための技術ではなく、何もしなくてもいい時間をつくるための技術
なのだと思う。
自分に合うところまで、調律する。
僕は、何かを選ぶときによく考える。
服も、道具も、サービスも、働き方も。
世間で一番良いものを選びたいわけではない。
最も安いものが欲しいわけでもない。
自分の暮らしに合うところまで考える。
必要なら使ってみて、違えば変える。
少し良くなれば、その状態でしばらく暮らしてみる。
また違和感が出れば、もう一度考える。
人生を設計しているというより、
暮らしを少しずつ調律している
という方が近いのかもしれない。
完成形をつくろうとしているわけではない。
その時々の自分にとって、心地よく鳴る状態を探している。
頑張り過ぎないために、鍛える。
僕は根性論を嫌いではない。
むしろ、結構好きだと思う。
それでも、根性だけで人生を走り続けるのは無理だとも思っている。
だから、頑張らなければできないことを、
少しずつ、
頑張らなくてもできる状態へ持っていきたい。
仕事でも、運動でも、学習でも同じだ。
普段の自分そのものを少しずつ強くする。
必要な時だけ、もう一段ギアを上げる。
ドラゴンボールで言えば、界王拳を使い続けるのではなく、スーパーサイヤ人を通常状態に近づけていくような感覚だ。
人生は長い。
一瞬だけ強くなるより、
壊れずに歩き続けられることの方が大切だと思っている。
真面目に考えて、遊びながら学ぶ。
僕は色々なところから考え方を拾ってくる。
哲学者の本から拾うこともある。
小説やエッセイから拾うこともある。
漫画やアニメ、映画、ゲームの登場人物から教わることもある。
僕の中では、それほど大きな違いはない。
哲学者の言葉も、キャラクターの生き方も、自分が考えるきっかけになれば同じだ。
正しい思想を一つ選びたいわけではない。
良いと思ったものを拾い、
自分の暮らしに合わせて組み合わせる。
昔遊んでいたカードゲームのように、別々の考え方を融合させた結果、僕なりの何かが生まれる。
それをまた試してみる。
だから僕は、何か一つの思想を忠実に実践している人間ではない。
色々なところから拾ったものを、自分用に編集して暮らしている。
足る。を知って、それでも欲しがる。
僕は、欲が少ない人間でもない。
旅もしたい。
キャンプもしたい。
ギターもうまくなりたい。
文章も書きたい。
絵も描いてみたい。
本もつくりたい。
いつか小さな農業もやってみたい。
やりたいことは、結構ある。
ただ、それらがなければ幸せではないとは思っていない。
白米を食べられる。
味噌汁を飲める。
歩ける身体がある。
本を読める。
ギターがある。
安心して眠れる場所がある。
それだけでも、僕の暮らしにはすでに十分なものがある。
その上に、
「これがあったらもっと楽しい」
を乗せていく。
だから僕にとって贅沢とは、悪いものではない。
むしろ好きだ。
ただ、
これは必要なものなのか。
それとも、より楽しむために足した贅沢なのか。
その違いだけは、自分で分かっていたい。
一人でいることを、寂しいとは思わない。
僕は、一人で過ごす時間が好きだ。
散歩をする。
公園で本を読む。
カフェでコーヒーを飲む。
考えごとをする。
それだけで一日が終わっても、あまり困らない。
だからといって、人が嫌いなわけでもない。
ただ、つながりを増やし続けることには、それほど興味がない。
必要な関係を大切にできればいい。
僕にとって孤独は、必ずしも欠けている状態ではない。
一人でいられることも、選べるなら贅沢だ。
このサイトも少し似ている。
誰かに読んでもらうためだけにつくっているわけではない。
僕自身が考え、整理し、記録するためにつくっている。
それでも、扉は閉めない。
通りかかった誰かが入りたければ入れる。
気になる文章があれば読んでいけばいい。
そんな場所でありたい。
僕は、暮らしの庭師なのだと思う。
このサイトをつくり始めた頃、
自分のことを「このサイトの庭師。」と表現した。
今は少し違うと思っている。
僕が手入れしているのは、サイトだけではない。
働き方。
お金。
物。
身体。
余暇。
創作。
人との距離。
そして、生き方。
僕が手入れしているのは、
僕自身の暮らしそのものだ。
考えという種を植える。
試してみる。
うまく育つものもあれば、育たないものもある。
伸び過ぎれば剪定する。
枯れた考えは抜く。
別の場所から新しい種を持ってくることもある。
そして、また育てる。
このサイトは、その庭で起きたことを書き残している場所なのだと思う。
ずっと、途中にいる。
僕は、完成した人間になれるとは思っていない。
そもそも、完成した人間がどんなものなのか分からない。
人生の正解も分からない。
死ぬまで分からないかもしれない。
だから、完成することを目標にはしない。
その代わり、
今日より少しだけ納得できる明日を探して歩く。
間違えたら戻ればいい。
違うと思えば変えればいい。
立ち止まってもいい。
寄り道してもいい。
散歩するように人生を歩きながら、
その時々の自分なりの納得。を刻んでいく。
たぶん、それが僕なのだと思う。
未完成であることを前提に、それでもより良くあろうとする。
そして、その過程そのものを楽しむ。
僕は今日も、
暮らしという庭を手入れしながら、
人生の途中。を歩いている。