僕。|暮らしの庭師。

初稿:2026年9月21日更新:2026年9月23日

僕は、答えを持っている人間ではない。

むしろ、答えが分からないから考えている。

どう生きるのが正しいのか。
どんな働き方が正しいのか。
何を持ち、何を手放せばいいのか。
幸福とは何なのか。
人生とは何なのか。

考え始めれば、分からないことばかりだ。

だから僕は、正解を探すというより、

いまの自分が納得できるところまで考える。

ということを繰り返している。

そして、考えたことを暮らしの中で試している。

暮らしを、自分の手に置いておきたい。

僕は、自分の人生をできるだけ自分で扱いたい。

会社も、世間も、流行も、便利なサービスも嫌いではない。

ただ、それらに無自覚に人生を預けてしまうことには、少し怖さを感じている。

働くことが嫌いなのではない。

必要以上に働かなければならない状態を好まない。

物を持つことが嫌いなのではない。

なぜ持っているのか分からない物に囲まれる状態を好まない。

SNSも同じだ。

使うことそのものではなく、自分の時間や思考が、いつの間にか誰かの都合で動かされてしまうことを警戒している。

だから僕は、よく整理する。

物を減らす。
仕組みを単純にする。
働き方を調整する。
余白を残す。

これは、少なく暮らすことそのものが目的なのではない。

自分で選べる状態を残しておきたいからだ。

自由とは、選択権が手元にあること。

僕にとって自由とは、何でもできることではない。

むしろ、

今日は働く。
今日は休む。
今日は散歩する。
本を読む。
ギターを弾く。
何もしない。

そのどれを選ぶかを、自分で決められることに近い。

やりたいことを選べるだけでなく、

やらないことを選べる。

それも自由だと思っている。

だから予定を詰め込まない。

生活に必要以上の固定費を抱えない。

出世や肩書きを人生の前提にも置かない。

空いている場所があるから、その時の自分が行きたい方向へ動ける。

僕にとって余白とは、何もない場所ではない。

何にでも使える場所だ。

効率化は、非効率を楽しむために。

僕は、わりと効率を考える。

仕事もそうだし、家事もそうだ。

服の種類を減らしたり、買う店やメーカーをある程度決めたりもする。

でも、効率的に生きたいわけではない。

効率化して生まれた時間まで、生産性で埋めようとは思わない。

その時間で散歩する。

公園のベンチで本を読む。

ギターを弾く。

キャンプへ行く。

何もしない。

そんな時間を残したい。

だから僕にとって効率化とは、

より多くのことをするための技術ではなく、何もしなくてもいい時間をつくるための技術

なのだと思う。

自分に合うところまで、調律する。

僕は、何かを選ぶときによく考える。

服も、道具も、サービスも、働き方も。

世間で一番良いものを選びたいわけではない。

最も安いものが欲しいわけでもない。

自分の暮らしに合うところまで考える。

必要なら使ってみて、違えば変える。

少し良くなれば、その状態でしばらく暮らしてみる。

また違和感が出れば、もう一度考える。

人生を設計しているというより、

暮らしを少しずつ調律している

という方が近いのかもしれない。

完成形をつくろうとしているわけではない。

その時々の自分にとって、心地よく鳴る状態を探している。

頑張り過ぎないために、鍛える。

僕は根性論を嫌いではない。

むしろ、結構好きだと思う。

それでも、根性だけで人生を走り続けるのは無理だとも思っている。

だから、頑張らなければできないことを、

少しずつ、

頑張らなくてもできる状態へ持っていきたい。

仕事でも、運動でも、学習でも同じだ。

普段の自分そのものを少しずつ強くする。

必要な時だけ、もう一段ギアを上げる。

ドラゴンボールで言えば、界王拳を使い続けるのではなく、スーパーサイヤ人を通常状態に近づけていくような感覚だ。

人生は長い。

一瞬だけ強くなるより、

壊れずに歩き続けられることの方が大切だと思っている。

真面目に考えて、遊びながら学ぶ。

僕は色々なところから考え方を拾ってくる。

哲学者の本から拾うこともある。

小説やエッセイから拾うこともある。

漫画やアニメ、映画、ゲームの登場人物から教わることもある。

僕の中では、それほど大きな違いはない。

哲学者の言葉も、キャラクターの生き方も、自分が考えるきっかけになれば同じだ。

正しい思想を一つ選びたいわけではない。

良いと思ったものを拾い、

自分の暮らしに合わせて組み合わせる。

昔遊んでいたカードゲームのように、別々の考え方を融合させた結果、僕なりの何かが生まれる。

それをまた試してみる。

だから僕は、何か一つの思想を忠実に実践している人間ではない。

色々なところから拾ったものを、自分用に編集して暮らしている。

足る。を知って、それでも欲しがる。

僕は、欲が少ない人間でもない。

旅もしたい。

キャンプもしたい。

ギターもうまくなりたい。

文章も書きたい。

絵も描いてみたい。

本もつくりたい。

いつか小さな農業もやってみたい。

やりたいことは、結構ある。

ただ、それらがなければ幸せではないとは思っていない。

白米を食べられる。

味噌汁を飲める。

歩ける身体がある。

本を読める。

ギターがある。

安心して眠れる場所がある。

それだけでも、僕の暮らしにはすでに十分なものがある。

その上に、

「これがあったらもっと楽しい」

を乗せていく。

だから僕にとって贅沢とは、悪いものではない。

むしろ好きだ。

ただ、

これは必要なものなのか。
それとも、より楽しむために足した贅沢なのか。

その違いだけは、自分で分かっていたい。

一人でいることを、寂しいとは思わない。

僕は、一人で過ごす時間が好きだ。

散歩をする。

公園で本を読む。

カフェでコーヒーを飲む。

考えごとをする。

それだけで一日が終わっても、あまり困らない。

だからといって、人が嫌いなわけでもない。

ただ、つながりを増やし続けることには、それほど興味がない。

必要な関係を大切にできればいい。

僕にとって孤独は、必ずしも欠けている状態ではない。

一人でいられることも、選べるなら贅沢だ。

このサイトも少し似ている。

誰かに読んでもらうためだけにつくっているわけではない。

僕自身が考え、整理し、記録するためにつくっている。

それでも、扉は閉めない。

通りかかった誰かが入りたければ入れる。

気になる文章があれば読んでいけばいい。

そんな場所でありたい。

僕は、暮らしの庭師なのだと思う。

このサイトをつくり始めた頃、

自分のことを「このサイトの庭師。」と表現した。

今は少し違うと思っている。

僕が手入れしているのは、サイトだけではない。

働き方。

お金。

物。

身体。

余暇。

創作。

人との距離。

そして、生き方。

僕が手入れしているのは、

僕自身の暮らしそのものだ。

考えという種を植える。

試してみる。

うまく育つものもあれば、育たないものもある。

伸び過ぎれば剪定する。

枯れた考えは抜く。

別の場所から新しい種を持ってくることもある。

そして、また育てる。

このサイトは、その庭で起きたことを書き残している場所なのだと思う。

ずっと、途中にいる。

僕は、完成した人間になれるとは思っていない。

そもそも、完成した人間がどんなものなのか分からない。

人生の正解も分からない。

死ぬまで分からないかもしれない。

だから、完成することを目標にはしない。

その代わり、

今日より少しだけ納得できる明日を探して歩く。

間違えたら戻ればいい。

違うと思えば変えればいい。

立ち止まってもいい。

寄り道してもいい。

散歩するように人生を歩きながら、

その時々の自分なりの納得。を刻んでいく。

たぶん、それが僕なのだと思う。

未完成であることを前提に、それでもより良くあろうとする。

そして、その過程そのものを楽しむ。

僕は今日も、

暮らしという庭を手入れしながら、

人生の途中。を歩いている。