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幸福を未来へ置いていた。

僕は長いあいだ、
幸福を未来へ置いていたのだと思う。

もっと働けば。
もっと稼げば。
もっと評価されれば。
もっと自由な時間が増えれば。
もっと環境が整えば。

その先に、
ようやく幸福があるのだと考えていた。

今はまだ途中で、
今はまだ足りなくて、
今はまだ我慢する段階で。

だから、
いつかそこへ辿り着くために、
今を差し出していた。

けれど、
幸福を未来へ置けば置くほど、
今の暮らしは空洞になっていく。

今日食べるご飯。
朝に歩く時間。
本を読む時間。
ギターを弾く時間。
何もしない余白。
静かに眠る夜。

そういうものが、
まだ幸福ではないものとして扱われてしまう。

今は準備期間で、
本番は未来にある。

そう思っているあいだ、
今の暮らしは、
いつまでも仮の時間になる。

たぶん僕は、
何かを手に入れれば満たされると思っていた。

収入。
肩書き。
評価。
自由。
資産。
道具。
環境。

もちろん、
それらは暮らしを支える力になる。

お金がなければ生活は不安定になるし、
道具が整えば日々は快適になる。
働き方が整えば、
時間にも心にも余白が生まれる。

だから、
それらを否定したいわけではない。

ただ、
それらを手に入れた先にしか
幸福がないと思ってしまうと、
今の自分はずっと不足した存在になる。

まだ足りない。
まだ整っていない。
まだ幸福になってはいけない。

そんなふうに、
幸福の許可を未来へ預けてしまう。

仕事に忙殺されていた頃の僕は、
まさにそうだったのだと思う。

新しいものを買う。
新しいことをする。
新しい場所へ行く。

そういう刺激によって、
幸福感を得ようとしていた。

何かを買えば満たされる。
どこかへ行けば満たされる。
新しいことを始めれば、
人生が動き出す。

そう考えていた。

けれどそれは、
刺激を楽しんでいたというより、
空洞を埋めようとしていたのだと思う。

幸福と刺激を、
混同していた。

幸福と刺激は、
似ているようで違う。

幸福は土台であり、
刺激はその上に乗る出来事である。

幸福は、
白米と味噌汁がうまいこと。
朝に歩ける体があること。
読める本があること。
弾けるギターがあること。
眠れる場所があること。
今日も暮らしが成立していること。

そういう日々の中に、
すでに小さく存在している。

それを認知できていないと、
刺激を幸福そのものだと思ってしまう。

けれど、
今が満ちていることを知っていれば、
刺激を刺激として認識したまま、
手を伸ばすことができる。

新しいものを買う。
新しいことをする。
新しい場所へ行く。

それらは、
今を救うためのものではない。

今の不足を埋めるためのものでもない。

すでに成立している暮らしの上に、
ひとつの刺激として置かれるものだ。

だから、
追わなくていい。

流されなくていい。

必要以上に期待しなくていい。

刺激は刺激として味わえばいい。

新しいものを買えば、
それは暮らしの精鋭。になるかもしれない。

新しいことをすれば、
知見が広がるかもしれない。

新しい場所へ行けば、
思い出になるかもしれない。

ある刺激は、
暮らしの中に溶け込み、
幸福の一部になっていく。

ある刺激は、
刺激のまま通り過ぎていく。

それでいいのだと思う。

大切なのは、
刺激を幸福と勘違いしないことだ。

刺激がなくても、
幸福はある。

その上で、
刺激を楽しめばいい。

僕の中では、
幸福の器と、
刺激の器を分けて考えると分かりやすい。

幸福の器は、
すでに満ちている。

日々の食事。
散歩。
読書。
ギター。
睡眠。
住まい。
体。
余白。

そういう暮らしの基礎で、
幸福の器はすでに満ちている。

そのことを知っているからこそ、
刺激をその器へ直接流し込まなくていい。

まずは別に、
刺激の器を用意する。

新しいもの。
新しいこと。
新しい場所。

それらをいきなり
幸福の器へ注がなくていい。

まずは、
刺激の器に入れる。

そして、
少し味わってみる。

これは自分の暮らしに合うのか。
これは続けたいものなのか。
これは残したいものなのか。
それとも、
ただ一時的に楽しかっただけなのか。

そうやって、
刺激をテイスティングする。

暮らしに入れたいと思えば、
幸福の器へ注げばいい。

物で例えるなら、
新しいものを注ぐことで、
古いものが外へ溢れ出ていく。

けれど、
それは悪いことではない。

幸福の器には容量がある。

すべてを抱え込もうとすれば、
器は濁ってしまう。

だから、
新しいものが入るとき、
古いものが出ていく。

それによって、
暮らしは更新されていく。

残すもの。
手放すもの。
通り過ぎるもの。

その選別を、
刺激に流されながらではなく、
満ちている暮らしの上で行う。

それが、
僕にとっての精鋭。なのだと思う。

幸福は、
獲得するものではないのかもしれない。

むしろ、
すでにあるものを認知することに近い。

もう何もいらない、
という意味ではない。

欲しいものもある。
やりたいこともある。
行きたい場所もある。
作りたいものもある。

けれど、
それらは不足を埋めるためではなく、
すでに成立している暮らしの上に
足し算されるものなのだと思う。

幸福が欠けているから、
何かを手に入れるのではない。

幸福がすでにあるから、
その上で楽しみを足していく。

この順番が変わるだけで、
暮らしの感触は大きく変わる。

未来のために今を犠牲にするのではなく、
今を生きながら、
未来にも手を伸ばす。

今を空洞にしないまま、
途中。を歩いていく。

幸福を未来へ置いていた頃、
僕はずっと、
まだ始まっていない人生を生きていた。

けれど今は、
少し違う。

幸福は、
どこか遠くにあるゴールではない。

今日の暮らしの中に、
すでに小さく存在している。

それを見失わないこと。

そして、
その上で刺激を味わい、
残したいものだけを暮らしへ注いでいくこと。

幸福を未来へ置かない。

今の暮らしの中に戻す。

たぶんそこから、
ようやく人生は、
自分のものになっていく。