余暇。|暮らしの中核に、自由を置く。

余暇。は、僕の暮らしの中核にある。

単なる自由時間ではない。

僕にとって余暇。とは、選択肢があり、自分で選択できる状態のことだと思う。

働きたいなら働く。

遊びたいなら遊ぶ。

散歩したければ散歩する。

本を読みたければ読む。

ギターを弾きたければ弾く。

誰かと過ごしたければ過ごす。

そして、何もしないという選択もできる。

何をするかよりも、何をするかを自分で決められること。

そこに余暇。の豊かさがある。

余暇。は人生に必要な領域。

僕は、余暇。を人生に必要不可欠なものだと考えている。

だから、労働。と同じように領域として分けて考えている。

労働。は暮らしを支えるために必要になる。

一方で余暇。は、自分の精神を休ませ、自分に戻るために必要になる。

僕にとって余暇。は、身体的な休息というより、精神的な休息に近い。

散歩をする。

公園のベンチで本を読む。

ギターを弾く。

映画を見る。

ゲームをする。

友人と酒を飲みながらカードゲームをする。

家族と食卓を囲む。

何もせずにぼんやりする。

どれも生きるために必須ではないのかもしれない。

でも、僕にとっては、こういう時間があることで暮らしが成立している。

無駄を贅沢に楽しむ。

余暇。に生産性は必要ない。

僕は、生産性という考え方をかなり労働。側に置いている。

仕事では、可能な限り無駄を減らしたい。

繰り返す仕事なら仕組み化する。

時間が掛かる仕事なら分解する。

属人化しているなら引き継げるようにする。

三時間掛かる仕事を一時間にできるなら、その方がいい。

けれど余暇。では、むしろ逆になる。

遠回りして歩いてもいい。

何の役にも立たない本を読んでもいい。

ゲームを何時間してもいい。

ギターで同じ曲を何度弾いてもいい。

公園のベンチで、ただ風を感じていてもいい。

何も生まれなくていい。

僕は、無駄を贅沢に楽しめることが余暇。の醍醐味だと思っている。

だから、余暇。にまで成果や効率を持ち込みたくない。

余暇。から創作。を切り出す。

もちろん、余暇。の中から何かが生まれることはある。

僕の場合なら、文章を書いたり、ギターを弾いたり、考え事をしたりする中から、創作。が生まれる。

でも、そこで余暇。そのものを仕事にしたくはない。

好きでやっていた趣味が仕事になり、いつの間にか成果や売上を求められるようになる。

僕は、その状態を避けたいと考えている。

だから、余暇。から生まれたものの中で、外へ開きたいものを創作。として切り出す。

そして、その創作。を売れる仕組みの中に置いたものを仕事。として扱う。

余暇。は余暇。のまま残す。

創作。は創作。として扱う。

仕事。は仕事。として扱う。

僕にとっては、その境界が大切になる。

余暇。は守るもの。

余暇。は、暇になった結果として生まれるものではないと思っている。

僕は、余暇。がある状態を暮らしのデフォルトとして設定している。

だから、その状態を守る。

僕はスケジュール帳を持っていない。

予定はiPhoneの標準カレンダーだけで管理していて、私生活では歯医者の定期検診くらいしか予定を入れない。

先に予定を埋めて、その隙間を余暇。にするのではない。

先に余暇。があり、必要な予定だけをそこへ置く。

何に使うかを決められる状態を残しておきたいからだ。

仕事についても同じで、仕事のスケジュールは勤務時間の中で完結させる。

繰り返す業務なら、曜日や時間をトリガーにしてルーティンへ組み込む。

締切があるなら逆算して分割する。

進捗を共有する。

引き継げるようにする。

休日に仕事を持ち込まない。

仕事の連絡が休日に来ない状態をつくる。

僕は、仕事を効率化すること自体が好きだけれど、その先には余暇。を侵食させないという目的もあるのだと思う。

空白。が余暇。を守る。

余暇。と空白。は近い。

けれど、僕の中では少し違う。

余暇。は、何をするかを選べる領域。

空白。は、その余暇。を守るために、そもそも埋めずに残しておく場所。

予定が増える。

仕事が少し忙しくなる。

体調を崩す。

急な用事が入る。

そういう出来事があっても、まず空白。が受け止める。

いきなり余暇。まで侵食させない。

僕には、

空白。が余暇。を守り、余暇。が暮らし。を守る。

という二重結界のような構造があるのかもしれない。

余暇。は暮らしを観測する。

余暇。には、もう一つ役割がある。

観測。だ。

散歩をしなくなる。

本を読まなくなる。

ギターに触れなくなる。

何もしない時間がなくなる。

そんな状態が続き始めると、僕は暮らしのどこかに乱れが生じているのではないかと考える。

仕事なのか。

お金なのか。

健康なのか。

人間関係なのか。

原因はその時々で違う。

でも、余暇。が静かに削られ始めることは、暮らしが崩れ始める小さなサインになる。

だから僕は、余暇。を楽しむだけではなく、その状態を見る。

余暇。が十分に残っているなら、僕の暮らしはおおむね正常に動いている。

余暇。が減っているなら、どこかを見直す。

余暇。は、暮らしの観測地点でもある。

余暇。は僕の中核にある。

僕の思想群を縦に並べると、余暇。は中ほどにある。

上には、暮らしを整えるための思想がある。

設計。する。

精鋭。を選ぶ。

円楯。で守る。

鍛錬。する。

そして余暇。より先には、創作。や仕事。、空白。、哲学。、人生。がある。

ただ、実際の僕の思想は縦に並んでいるわけではない。

僕。という一つの世界の中で、それぞれが互いに影響しながら回っている。

その中で、余暇。は太陽のような位置にあるのかもしれない。

他の思想は余暇。を守る。

そして余暇。があることで、他の思想を考え、実践する余力が生まれる。

余暇。が崩れると、その上下も一緒に崩れやすい。

だから、僕は余暇。を中核として扱っている。

孤独。も贅沢になる。

余暇。の中では、一人でいる時間も大切にしている。

青空の下、草木に囲まれた公園のベンチで本を読む。

散歩をしながら考え事をする。

僕にとって、こういう時間の幸福度は高い。

孤独。という言葉は、どちらかと言えばネガティブに捉えられがちだと思う。

でも、今の時代に自分の意思で孤独を選べることは、ある意味では贅沢なのではないかと僕は考えている。

他人の目や行動が簡単に入ってくる時代だからこそ、自分だけの時間を持てることには価値がある。

ただし、他者に無関心でいいとは思っていない。

僕も社会の中で生きている。

家族がいる。

友人がいる。

仕事では同僚と協力する。

だから、孤独。と関係。の間には境界。が必要になる。

自分が影響できることと、関心はあっても自分では動かせないことを分ける。

できることはする。

できないことまでは背負わない。

そうして、自分の領域へ戻る。

一人で満ちるから、誰かとの時間も贅沢になる。

一人でいる時間を楽しめるからこそ、誰かと過ごす時間もまた贅沢になる。

友人と酒を飲みながらカードゲームをする。

家族と食卓を囲む。

仕事中、同僚と少し雑談する。

AIと対話しながら考えを深める。

どれも、一人では足りないから求める時間ではない。

一人でも満ちている。

その上に、誰かと過ごす楽しさを足している。

だから僕にとって余暇。は、一人になるための領域でもない。

一人でいることも。

誰かといることも。

何かをすることも。

何もしないことも。

その時の自分が心からやりたいことを選べる。

その状態こそが、僕にとって極上の余暇。なのだと思う。

余暇。は、暮らしの余りではない。

生産性や成果から離れ、無駄を贅沢に楽しみ、自分の時間を自分で選ぶための領域。

そして僕が、僕の暮らしを続けていくために必要な中核なのである。