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余暇。を守るための境界線。

暮らしの領域は、
生活防衛。|制作。|余暇。
の三つに分けて考えると良いのかもしれない。

これは単なる分類ではない。

事業。を制作。として、
中間に置き続けるための領域区分であり、
余暇。を守るための境界線でもある。

生活防衛。は、
暮らしの土台を守る領域である。

雇用労働。
生活費。
投資。
備蓄。
保険。

ここは、
小さく、安定している方がいい。

ただし、
完全に消せばいいわけでもない。

生活防衛。としての雇用労働を完全に捨てる。
つまりFIREに寄せきると、
暮らしの土台は資産に乗る。

そうなると、
株価の変動に不安を抱く可能性が出てくる。

事業。を生活防衛。の中心に置く場合も同じである。

収入が不安定になれば、
精神が乱れる可能性がある。

この点において、
雇用は安心感が高い。

毎月ある程度の収入が入る。
それだけで、
制作。は生活費を背負わずに済む。

ただし、
雇用の幅が増えすぎると、
今度は余暇。が狭まる。

余暇。が狭まると、
制作。の源泉が枯れる。

制作。が消えると、
暮らしを言葉や音や形に変える中間領域がなくなる。

生活防衛。を消しすぎても乱れる。
生活防衛。を広げすぎても乱れる。

だから、
雇用労働は捨てるものではなく、
小さく持つものなのだと思う。

制作。は、
生活防衛。と余暇。の中間にある。

文章を書く。
サイトを整える。
ギターを弾く。
動画にする。
本にする。
暮らしの中で考えたことを形にする。

ここに、
事業。を置く。

僕にとっての事業。は、
生活防衛。を直接背負うものではない。

余暇。の一部を外に開いて、
キャッシュポイント化する制作。なのだと思う。

今の僕の場合、
それは執筆。になる。

日記。
原稿。
冊子。
Kindle。
サイト。
暮らしの記録。

散歩して考えたこと。
読書して考えたこと。
暮らしを整える中で見えたこと。

そういう余暇。や暮らしからこぼれたものを、
文章として外に置く。

それが、
今の僕にとっての事業。である。

今後、
ギターをYouTube配信として開く場合も、
同じ構造になると思う。

広告収入を主軸にするのではなく、
メンバーシップでの限定ライブや、
投げ銭を中心に置く。

広く取るより、
深く届いた人から受け取る。

伸びる曲を弾くためではなく、
弾きたい曲を共有するために外へ開く。

そう考えると、
ギターもまた、
余暇。の一部を外に開いた制作。になる。

事業。を生活防衛。に置きすぎると、
稼がなければならないものになる。

書くことも、
弾くことも、
整えることも、
暮らしを守るための労働に近づいていく。

さらにその奥で、
余暇。まで侵食される。

書くために散歩する。
売るために読む。
伸ばすために弾く。
発信するために遊ぶ。

そうなった時、
余暇。は余暇。ではなくなる。

だから、
生活防衛。|制作。|余暇。
という区分が必要になる。

生活防衛。は、
暮らしを守る。

制作。は、
余暇。からこぼれたものを形にする。

余暇。は、
何の役にも立たなくていい源泉として守る。

制作。を中間に置き続けることは、
余暇。を守ることでもある。

僕は、
余暇。を燃料にして稼ぎたいわけではない。

余暇。からこぼれたものを、
制作。として外に開きたい。

その結果として、
少しお金になるなら、
それでいい。

今の僕は、
生活防衛。と余暇。については、
ある程度整っているのだと思う。

生活防衛。には、
雇用労働があり、
生活費の輪郭があり、
投資の仕組みがあり、
備蓄や防災の考え方も育ち始めている。

余暇。には、
散歩があり、
読書があり、
ギターがあり、
筋トレがあり、
キャンプがあり、
食があり、
考えごとがある。

暮らしを守る領域と、
暮らしの源泉になる領域は、
すでに見えている。

だからこれから築いていきたいのは、
その中間にある制作。の領域なのだと思う。

生活防衛。だけでは、
守る暮らしになる。

余暇。だけでは、
内側で満ちる暮らしになる。

制作。があることで、
暮らしは外に開く。

生活防衛。と余暇。のあいだに、
制作。という橋を架ける。

この三つの領域があることで、
事業。は事業。でありながら、
暮らしを壊さずに済むのだと思う。